こんにちは、仮面うつです。
こっそりゴールデンウイーク企画として、連日、(自称)名古屋観光大使の記事を書いていましたが、今日からはまた気ままに、気分の赴くままに記事を書いていきます。
復帰、一発目は、日記です(*^_^*)💦
2018年5月5日~6日の二日間、妙心寺(京都)で坐禅体験をしてきましたので、そこでの日記と学びを書いていきます。
妙心寺と坐禅スケジュールについて
妙心寺は、京都にある臨済宗、妙心寺派の総本山です。
妙心寺といえば、法堂の天井に描かれている雲龍図(下記図)が有名です。
見る場所によって、昇り龍にみえたり、下り龍にみえたり、コンタクトレンズのように見えたりと色々な見え方がする不思議な龍です。
また、2020年の大河ドラマで、主人公となる明智光秀ゆかりの「明智風呂」もございます。
(画像の引用元)江〜姫たちの戦国〜妙心寺 明智風呂 - SABUのドキドキ好奇心倶楽部 - Yahoo!ブログ
明智光秀ファン、大河ドラマファンは一度、訪れてみてはいかがでしょうか。
▶【雑学】日本の禅宗は2派(臨済宗と曹洞宗)にわかれていますが
ここからは、勝手な持論・解釈です。
日本の禅宗は、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗と2派に分かれています。
道元といえば、正法眼蔵が有名で、日本最古の哲学書といわれています。
正法眼蔵という書籍は知らなくても、次の言葉を耳にしたことがある方は多いのではないでしょうか?
仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
しかし、この正法眼蔵は、完全な道元のオリジナルではないようです。
中国の禅僧、臨済(臨済宗のもとになった方)によって残された思想、書物をベースに書かれたのが正法眼蔵のようです。
何がいいたいのかというと、
日本の禅宗は、曹洞宗と臨済宗というふうに2派にわかれているが、元は、臨済の教えをくんでいるため、臨済を学ぶということが日本における禅宗を知るということになるんじゃないですか?
と思っています。
そこで、今回の坐禅体験は、臨済の流れをくむ、臨済の名前のついた臨済宗の総本山での坐禅のため、禅のルーツを知る旅のような気もして、行く前からワクワクしていました(*^_^*)
▶坐禅体験のスケジュール
妙心寺での坐禅体験は、妙心寺派研修センター(上記写真)で行われます。
スケジュールは次のようになっています。
受付をしてから、講和、就寝、朝食、掃除以外は、すべて坐禅です(;^ω^)💦
えーと、2日間で、4時間坐るってことかにゃ?
スケジュールをみるだけでなかなか厳しそうです...。
しかーし、これこそ道を求める、自分にとって嬉しいスケジュール!
(ごめんなさい、格好つけました(;^ω^)💦)
いざ、いかん!
▶一泊二日、朝食付きで¥2,000-。さらに、雲龍図も拝見できる!
こちら、体験した後だからいえることですが、2日目の坐禅は、法堂の雲龍図の下で、坐禅を組みました。
この法堂は、参拝で訪れても、拝観料500円を支払わないと立ち入りできない場所です。
それが、この1泊2日、朝食付きで、2,000円で雲龍図も拝見できるとは、むっちゃお得じゃないですか?
これから、妙心寺を訪れようと思われている方は、坐禅体験も視野に入れてみてはどうでしょうか?
坐禅体験で学んだこと
ここからは、実際に体験したこと、学んだことを書いていきます。
▶坐禅よりも厳しい、作法の数々
坐禅体験なので、きついのは坐禅だろうと思っていました。
が、考えが甘かったです。
坐禅以上に厳しいのがありました!
もう、ここではいいあらわせないくらいの作法、しきたりの数々です。
説明をして下さる和尚さんは、「一度に言っても覚えれないでしょうから、できるだけやってみてくださいね」と仰ってくださいますが、そう甘くなかったです(;^ω^)💦
和尚さんより、坐禅体験の常連さんが、むちゃくちゃ厳しい!
少しでも間違おうもんなら、命令口調で叱責が飛んできます(;´∀`)
そっかー、厳しいというのはそういうことか、と思いつつも、
「こだわり」、「とらわれ」を捨てるためにきた、坐禅体験で、なぜここまで、各種作用に「こだわらる」必要があるのか?と説明、叱責を受けながら少し疑問に思っていました(;^ω^)💦 坐って自分をみつめることが大事なんじゃないのか?と。
が、そこは「郷に入ったら郷に従え」で謙虚に対応しましたよ。
▶身体のゆがみを矯正してもらえた
そして、念願の坐禅スタートです。
妙心寺で坐禅を組むのははじめてですが、過去には、曹洞宗の総本山、永平寺をはじめ、色々なところで坐禅体験はしてきています。
それらを通して、共通している不満がありました。
それは、どこも指導が甘いんです!
自分のなかで、「これはきちんとできてなかったな」
と思えるときでも、後で出来栄えをきくと「きちんとできていましたよ(*^_^*)」と、甘々な対応をしてくださいますので、物足りない思いがいつも残っていました。
おそらく、在家(出家していない人)のなかでは、マシな方だったということなのでしょうが、もっとビシバシと指導してほしいなと思っている自分がいつもいました。
ですが、このもの足りなさは、早速、解消しました。
坐りはじめて、10分余り経過した頃でしょうか、背中に、警策をあてられて身体のゆがみを矯正してくださいました。
もうこれだけで感動です!
やったー、来た甲斐があったよー♬
ただ、次の問題がでてきたのです。
▶「かたより、こだわり、とらわれ」が浮き彫りになってきた1日目
感動をかみしめたあと、自分のイヤな面が浮き彫りになってきました。
- この一泊二日の坐禅体験をきちんと過ごしたいという、「べき思考」への”かたより”
- 自分の身体が歪んでいないのか?と常に気にしてしまう、「姿勢」への”こだわり”
- 「五感」で感じる感覚に意識がそがれて、それについて考えてしまう”とらわれ”
(画像の引用元)■e-Brains ギャラリー 「座右の銘・運命を変えたこの一言」
禅の修行として、手放す対象とされている3つの執着。
この3つ共、すべてが常時、頭に浮かんできて、それをそのまま認めよう、受け流そうとしても、それがほとんどできない苦しい、苦しい時間を過ごしていました。
こちらの坐禅体験では、はじめに数息観として、
①鼻で息を吐き切ることを意識してください。
②自分の吐く息を1~10まで数えてください。
③数えている途中に、呼吸以外のことが頭をよぎったら、1に戻ってやりなおしてください。
と教わっていました。
もうね、ほとんど、1です。
1回の吐く息を5~10秒程かけて吐いているので、その途中で雑念がでてきて、1に逆戻りです(;^ω^)💦
なかなか、2にすすみません(;^ω^)💦
毎日、自宅でやっているマインドフルネス、一体なんだったんだ?
と思えるくらい、欲望まみれの自分であることを痛感させられます。
初日は、トイレ休憩の時間も、早々に用をすませて坐っていましたが、3までいけたのは数える程でした。
そんなこんなで、初日は終了しました。
初日の収穫としては、自分がどれだけ欲望まみれなのかということを突き付けられた、知ることができたのが学びといえるでしょう。
▶理由なく幸せな気持ちになれた2日目
そして、二日目の坐禅スタートです。
昨夜、荒れ狂っていた雑念の数々、ウソのように静まり返っています。
坐禅をせずに、歩いているとき、坐っているとき、関係なく基本、静かな心で向き合うことができ、普通の朝が、輝いてみえます。
全く雑念が湧いてこないわけではなかったですが、湧いてくる雑念は、「この気持ちのよい感覚が、いずれなくなってしまうのか」という、幸せな状態を手放す瞬間がくることを残念に思う自分がいました。
ほんの一晩で、なぜここまで劇的にかわるのか、理由がまったくわかりませんでした。
▶手段ではなく、「三昧」になることが大切
二日目の最後、分散茶礼で自己紹介と質問させて頂ける機会を与えて頂きました。
仏教の始祖、お釈迦様、禅宗の臨済、達磨大師、道元の在世時はお経は読んでいなかったはずです。それがなぜ、今では禅宗でも、お経を読んでいるのですか?
と、失礼な質問をさせて頂きました。
同じ質問は、他の寺院でもさせて頂いたことがあるのですが、そこでは、
「お経を読まなかったら、野狐禅になる。だから、お経は必要なんだ」
という回答で、全然腑におちなかったんですよね...
妙心寺の回答は、こちら(意訳含む)でした。
「お経を読む意味があるのか、ないのか?それは関係ない。ただ、一心不乱にお経を読むことが大事なことで、そうやって三昧になって自分を捨てるということが大事なことなんだ」
これ、スッキリしました!
上で紹介した正法眼蔵に書かれている、
「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
この”身心を脱落する”ということは、三昧になるということかと、頭のなかで線になったような感じを受けました。
そういう意味で、坐禅、お経は、三昧になって脱落するための手段にすぎないんだな。
初日に「こだわり」なんじゃないのかと思っていた各種しきたりや作法も、言葉を介さずに(言葉を脱落させて)、必要最小限の行動と、ひとつひとつの行動に心を込める手段のあらわれとして、受け継がれているということなんだろうな。
カタチだけにとらわれていたのは、自分の方だったんだなと、解釈しました。
▶心を波立てるものから離れて、時間をとることが大事
ここから書くことは、坐禅体験が終わってから感じたことです。
初日に、あれだけ自分の心を乱しまくってくれた雑念たちが、二日目に急になりを潜めた理由は、次のことなんじゃないだろうかと。
- スマホから離れて、外界の情報を遮断した
- 坐禅体験がスタートしてから、ほとんど口をきいていない
- 周りの参加者もみな静かに行動している
- 波立っていた心への刺激がなくなったことで、平らになりやすくなった
- 志をともにする仲間と一緒に行動する雰囲気が、平静になる手助けになった
と勝手に解釈しています。
というのも、坐禅体験がおわって、スマホをみてから、自分でもハッキリとわかるくらい、徐々に心に雑念が戻ってくることを自覚していました(;^ω^)💦
そのため、禅寺での坐禅に限らず、1日の間、自分に刺激を与えるものから距離をとって、自らの心を鎮める時間をとることが大事なんだろうなと感じています。
妙心寺さん、二日間ありがとうございました!
また来ます!
まとめ
色々と日記を書いてきました。
要点をまとめると次のようになります。
- 妙心寺の坐禅体験は、和尚様より在家の方々が厳しい
- 各種作法、しきたりが多いが、そのなかに込められた心を知ることが大事
- 自分は悟りにはほど遠い存在だ、慢心してはいけない
- お経、坐禅といった修行スタイルは手段にすぎない
- 身心を脱落するために三昧に入ることが大事
- 刺激から距離と時間をおくことで、かってに心は静まる
- 志をもった方々と寝食をともにすることで得られる効果は計り知れない
名古屋~妙心寺間は、在来線でいけば往復5,200円とリーズナブルにいけるので、1ヶ月に1度くらいは、心の洗濯に妙心寺を訪れたいなと思う、仮面うつでした。
他、こちらの坐禅体験に行かれた方は、どんな経験をされているのでしょうか?
参加経験者および、これから坐禅を試してみようと思われている方にとって、なんらかの参考になれば幸いです。
おわり
今日もありがとうございました。
それでは、また。
でつノ